本来は、順位が違うはずでしょう!
更新サボっててすいません。単行本の執筆と週末の授業参観2連発(ムスメの小学校とムスコの幼稚園)と、来週の撮影ラッシュの準備で(月曜から金曜までに11人撮影します!)死んでおりますのですよ。そんなことを言いつつも、憧れのラズウェル細木先生と飲むという素晴らしい機会にも恵まれたりしてました。しあわせ…。
さて、エロメディアの変化を追うというテーマの単行本なもんで、1950年代からのエロメディアの歴史の資料を色々ひっくり返していたわけですが、日本のエロメディアってのは規制というものと常に対峙してきたんだなぁと実感いたしました。日本のエロの歴史というのは、規制に対して、どう抜け道を作るかという戦いの歴史だったんですよね。ここで大事なのは、規制を変えるための戦いじゃないってことですね。それは芸術方面とかの方々の仕事で、エロの人の仕事はあくまでも、どう「言い訳」をするか。
極端な例では80年代前半のロリコンヌードブーム。 「陰毛の生えていない少女のワレメは性器ではない。だから、無修正のロリータヌードは違法ではない」という理屈によって、ワレメ無修正の写真集が何十冊も発売されていたんですよね。少女のヌード自体が厳禁となった今からは考えられないでしょうけど。これも長かったヘア規制の反動でしょうね。ヘア=ワイセツということばかりが問題になっていたから、ヘアが無い=ワイセツじゃない、なんて気がしてきちゃった。
で、同じような意味で、不思議な扱いを受けているのが肛門なんですよね。アナルとは性器なのか? ワイセツなのか?という問題は、日本のエロの状況にねじれ現象をもたらしているんですね。
この問題が最初にクローズアップされたのが、84年から86年にかけて一部でブームとなった無審査ビデオ、ブラックパックでしょう。黒い紙パックに入れられていたことから、こう呼ばれていた元祖インディーズAVですね。いちおうヘアも性器も隠しているんですが*1、アナルは丸見えの作品が多かったんですね。丸見えどころか、肛門鏡で広げるわ、何本もエンピツを突っ込むわ、タバスコで浣腸(!)するわと、めちゃくちゃな行為をアナルにしていたんですね。ヘアはしっかり隠してるのに(まぁ、本当はちょこちょことハミ出てました)。ブラックパックは、とりあえず裏モノではなく、レンタルショップや大人のオモチャ屋などでお金を出せば、見られるものでした。つまり見ようと思えば、性器やヘアは見られなくても、合法的に肛門は見ることが出来る。そんなねじれた状況だったんですね。もちろん、当時の普通のAV、すなわちビデ倫審査AVは、ヘアも性器も肛門も隠してましたよ。これは現在でも同じですね。
さて、続いてこのねじれ現象が現れたのが、90年代後半の平成風俗ブーム。イメクラとか性感ヘルスなどで、アナルファックが流行したんですね。「尻キチ隊」とか「Y倶楽部」とかアナルファック専門店もずいぶん出来ました。でも、本番はNGなんですね。本番は違法だけど、アナルファックは違法じゃない、という建前ですね。つまりここでも、本番よりもアナルファックの方が簡単に出来るというねじれ現象が起こったわけです。
雑誌の方でも90年代前半から、マニア誌ではアナルは無修正になっていきましたね。たぶん92年頃だと思うのですが「SMスナイパー」が「アナル写真解放区」なんて企画でアナルを誌面一杯に大写しにした時は、ドギモを抜かれましたね。あと、三和出版の「割り切った私たち」というシリーズのムックも、アナルがよく映ってました。
そして今。すでにAV界の圧倒的な勢力となっている非ビデ倫AVは、基本的にアナル無修正*2。と、いうか、アナルをしっかり写さないと「レンタルAV(ビデ倫)じゃないんだから、生ぬるいことするな!」と怒られます。雑誌でも、書店売りのハメ撮り誌なんかは、ガンガン大写ししてますね。90年代に入って、ヘアこそ(ビデ倫AV以外は)解禁になりましたが、性器はまだNG。
つまり今の日本のエロメディアでは、
おっぱい>ヘア>アナル>超えられない壁>性器
という状況なわけですね。
風俗なんかで言えば
フェラ>アナルファック>超えられない壁>本番
となります。
んー、やっぱりねぇ、おかしいですよ。性器見られるよりも、肛門を見られる方が恥ずかしいはずでしょう! 普通にセックスするよりもアナルセックスの方が難易度が高いはずでしょう! こんなねじれ現象は、間違っている!
いや、ただ、この状況だと、僕の愛するSM作家、結城彩雨先生の作品が成り立たなくなっちゃうから、文句言ってるんですけどね。結城先生ってのは、ひたすらアナル責めにこだわる作家なのですが、今みたいにアナルの価値が下がっちゃうとですね、「いやぁ、お尻だけは許してぇ!」なんてのが成り立たないじゃないですか。そうやって恥じらったり、恐れたりするから、小説として成り立つのに!