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ダリブロ 安田理央Blog

フリーライター安田理央のBlogです。

生稲マガジンとその時代・1

思い出す

 あけましておめでとうございます。今年は年賀状を書きませんでした。お世話になった方々、申し訳ございません。年賀状をいただいた方にはお返事は書こうと思っております。

 雨宮まみのblogに、彼女が寄稿した『溺死ジャーナル』というミニコミ(松本亀吉氏発行)のコンテンツが掲載されていたのだが、その中に「生稲マガジン」(村山ひでき)というコーナーがあって、ずっと気になっていた。「生稲マガジン」というのは、20年前に僕が編集に携わっていたアイドル雑誌、「The BOO!」で、僕が担当していた生稲晃子の連載ページのタイトルだったからだ。
 しかし、まさかそんな20年も前のマイナーなアイドル雑誌の、しかも生稲晃子なんて渋いアイドルのコーナーを今さら引用するなんてあり得ないとは思ったのだが、気になって仕方がないので、本日タコシェに行って「溺死ジャーナル」を購入してきた。
 問題のページは生稲晃子をネタにした、なんだかよくわからない原稿だったが(スイマセン)、その中に「朝から『The Boo』の撮影だよ」という一文があって、ああ、やっぱりこの作者は「The BOO!」を知ってるんだな、とちょっと驚いた。

 僕にとって「The BOO!」(以下「BOO!」)は、出版業界に入るきっかけとなった雑誌だ。この雑誌がなかったら、僕は今、ライターをやっていなかったかもしれない。
 1987年。僕は高校を卒業した後、西武デパートでバイトをしながら美学校の考現学教室(講師:赤瀬川原平)に通っていた。そして高校時代に結成したバンド、モデルプランツが本格的に活動を始めた矢先に空中分解、同時期に年上の女性に失恋したこともあり、ひどく落ち込んだ。
 バイトも辞めて、しばらく悶々としていたが、一人暮らしをしていたため、いつまでもボーっとしているわけにもいかない。何か働かないととアルバイト雑誌(たぶん「フロム・エー」)を見ていたら、編集プロダクションの求人があった。もともと雑誌は好きだったが、それほど出版業界に入りたいという意志があったわけではなく、まぁ、面白そうかなという程度の気持ちで、面接に行った。
 市ヶ谷の小さなマンションの一室にあったその編プロは、これからアイドル雑誌を作るので、そのスタッフを募集しているのだという。その頃はおニャン子クラブ全盛期だったが、当時の僕はロック一辺倒でアイドルは全く詳しくなかった。アイドルに対する基礎知識を調べる簡単な筆記テストのようなものがあり、僕はさっぱりわからず、ふざけた回答ばかりを並べていた。ああ、こりゃダメだと思った。
 ところが、採用されてしまったのだ。どうやら、実質的に編集のメインとなるIさんという人が、僕のふざけた回答を気に入ってくれたらしい。その時は、数人のバイトが採用されたのだが、僕はIさんのアシスタント的な立場として働くことになった。
 当時、アイドル雑誌は学研の「BOMB!」と集英社の「DUNK」などのB5サイズが人気を博していた。同じ判型で、もう少しマイナーでエロ雑誌寄りの「ザ・シュガー」(考友社)や「投稿写真」(サン出版)というのもあり、新雑誌はその中間あたりを狙っていたようだ。
「BOO!」というタイトルのその雑誌は版元は日本文芸社だが、編集はその編プロ「P」が丸々請け負っていた。編集長となる編プロの社長はタレントの出演交渉などをメインにやっていたため、ページ作りのほとんどが副編集長であるIさんが担当した。そして僕も大量のページを任された。高校時代にちょっとミニコミらしきものを作った経験がある程度の素人の19歳に、いきなり商業雑誌のページを任せるとは大胆だ。まぁ、昔のエロ雑誌は、だいたいそんな感じだったらしいが。
 1987年6月28日に発売された創刊号(8月号)を見てみると、表紙と巻頭特集は後藤久美子斉藤由貴おニャン子クラブ佐野量子杉浦幸松本典子坂上香織なんて名前が表紙に踊っている。そういう時代だ。僕は情報ページや読者投稿コーナー、そしてAVコーナーなどを主に任された。情報コーナーではネオGSやレゲエサンスプラッシュの記事なんかをこっそり紛れ込ませている。
 自分が書いた原稿が、印刷されて雑誌として全国で販売される。その喜びを僕はこの時、知った。DTPやインターネットが一般化した時代に育った人には、あの初めての快感はちょっとわかってもらえないだろう。

 …「生稲マガジン」について書こうと思ったら、つい長くなってしまった。えー、この話続きます。新年早々、昔話ですいません。

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