ダリブロ 安田理央Blog

フリーライター安田理央のBlogです。

生稲マガジンとその時代・2

 副編集長のIさんにしごかれ、ほとんど編集部に住み着くような日々が始まった。それでもその頃、僕が住んでいたのは家賃二万、風呂無しトイレ共同という凄まじいボロアパートだったので、編集部で寝泊まりする方が快適だった。時々、経費で編集部近くのカプセルホテルに泊まれたりすると嬉しかった。
 ところが創刊3号を校了した後から、Iさんが編集部に来なくなってしまった。それまでのハードワークがたたって、ちょっと休むという話だったが、それっきりなのだ。どうやら編プロ「P」の社長である編集長と衝突し、辞めてしまったらしい。困ったのは、ほとんどのページをIさんが作っていた「Boo!」だ。とりあえずそれまで「Boo!」以外の固めの雑誌記事を書いていたKさんを副編集長にして再出発。そうなると、当然、僕も多くのページを担当しなければならなくなった。半年間、編集のイロハを教えてくれた師であるIさんが、僕に何も言わないで去っていったことはショックだった。捨てられたという気持ちになった。しかし月刊誌の仕事は待ってはくれない。とにかくやって行かなくてはならない。
 うしろ髪ひかれ隊が表紙の創刊第4号、1987年11月号では、初めてグラビアページも担当した。少女隊だった。あまりアイドルらしからぬノリを持っていた少女隊は、僕も好きで、イギリス郊外風のイメージのスタイリングをしたり、キャッチコピーにビートルズやXTCのタイトルや詩を引用したりして、好き勝手に構成した。
 読者ページでは、架空の編集者を作り(ちゃんと奥付にその編集者の名前もクレジットした)キャラ化した。Iさんが作ったフォーマットを、どんどん自分流に変えていった。雑誌内新聞も作った。昔から、雑誌内新聞とか、雑誌内雑誌というスタイルは大好きだった。たぶん小学生の頃から愛読していた「OUT」(みのり書房)の影響だ。
 のちにアニメ雑誌として人気を確立する「OUT」だが、初期はパロディ色の強いサブカルチャー雑誌だった。例えば1978年11月号では表紙をめくると少女漫画誌っぽい「OUT」の表紙(しかもそれ風の記事タイトルもあり、裏には架空の広告が描かれている)、つづいて昔の少年雑誌風の「OUT」、続いてSF雑誌風、コロコロコミック風、などと4枚の表紙が次々と出てくるといった具合だ。
 最も印象深かったのが、1979年10月号から掲載された「月刊さくま」だ。ご存じ、さくまあきら氏の連載だ。それまでOUT国という国の官報というスタイルの「OUT政府官報」がさくまあきら&えびなみつる(二人が総理と副総理という設定)によって連載されていたのだが、突然の政権交代劇によって、堀井雄二&えびなみつるの新政権に変わってしまった。そして追放されたさくま元総理は、「月刊さくま」という新コーナーをスタートさせたのだ。この斬新な展開に小学生だった僕は興奮した。そして雑誌内雑誌「月刊さくま」の面白さに狂気した。当時の流行語にもなっていた「激写」をもじった顔マネ写真の「激面」、新幹線への愛を綴った特集など、ナンセンスな記事が満載され、細かいところまでパロディやギャグが仕込まれていた。
 影響を受けた僕は、さっそく学校の連絡ノート(担任の先生との交換日記的なノート)に「ヤスダマガジン」というパロディ雑誌を書いたりした。これが受けて、その時のクラスでは個人雑誌や個人新聞を作ることが、ちょっと流行した。
 この辺りが、今の仕事をするようになる原点かもしれない。

(まだ続きますよ! 次回、ようやく生稲マガジン登場! 予定…)

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