ダリブロ 安田理央Blog

フリーライター安田理央のBlogです。

エロ分別化計画

 さっそく前回のエントリー「悔しいけど松本和彦はわかってる」に、雨宮まみさんが反応してくれましたよ。 こういう時にしか書かないんだからなぁ、雨宮さん。

 エロ本文化というべきものがありました。エロ雑誌は、カラーページにハダカの写真を載せていれば、後は好き勝手に作っていいというような風潮があったのです。末井昭編集の伝説の雑誌「ウィークエンド・スーパー」*1は、赤瀬川原平上杉清文南伸坊巻上公一鈴木いづみ、高平哲郎、山崎春美なんて面々がエロとは全く関係ない原稿を書きまくっていたし、アニメ雑誌以外で初めて「エヴァンゲリオン」特集をやったのは「デラべっぴん」でした。東良美季さんが編集長をしていた「ボディプレス」の1986年10月号「写真機たちの逆襲」特集号では、巻頭72ページの写真特集のうち、ヌード写真はわずか18枚(セミヌード含む)で、あとは風景写真やらD−Dayのライブ写真やら滝本淳助の写真マンガやらが延々と続いています。僕のライターデビュー当時にずいぶん書かせてもらったSM誌「TOPAZ」のニュースコラム欄を見ると、紹介されている映画は原一男監督の「全身小説家」に「モスクワ・天使のいない夜」、音楽は大友良英にアルタードステイツ、スーパーボール。さらにレントゲン藝術研究所だのジョン・ダンカンだのといった固有名詞が飛び交ってます。イッツ・サブカルチャー! あまり読んだことないんですけど、80年代初頭の自販機本なんかも凄かったらしいですしね。根本敬の死体マンガを始めて掲載した「EVE」とか。こうしたものが、普通のベタなエロとごった煮になってるのがエロ本文化でした。
 まぁ、僕なんかは、このあたりのアナーキーな感覚に、ショックを受けてこの業界へ入ってきたようなもんです。でも、同時に「抜けるなぁ」というベタなエロも大好きでした。エロ業界に入って、ベタなエロ記事を作るのも好きだったし、バカバカしいとか変とか、あるいはサブカル寄りだったりする記事を作るのも、やっぱり楽しかったんです。幸せな時代は、それで共存できたんです。売れたから。いや、もちろん売れない本もあったけど、業界自体が、まだ潤っていたから。
 しかし、ここ数年は未曾有のエロ本不況です。売れません。社会的な不景気の影響もあるのでしょうけど、どちらかといえば、構造的な問題の方が大きいでしょう。一番の原因はネットの普及でしょう。いくらでも無料でエロなコンテンツを手に入れることが出来るようになって、もう恥ずかしい思いをしてエロ本をレジに持っていく必要はなくなったのですから。いや、単にユーザーをネットに取られたというだけではないでしょう。最も重要な変化は、エロにありがたみがなくなったということだと思うのです。これまでのエロ・コンテンツというものは、「女のハダカはありがたい。セックスを見せてくれるのは、ありがたい」という前提で作られてきました。ハダカさえ出しておけば、なんとかなる。未だに非エロ業界の人などは、こういった考えを持っている人がいたりしますね。しかし、これだけエロが氾濫してしまっている状態では、「女のハダカ」の価値は暴落しています。デフレというヤツですね。ハダカというだけで、ありがたがられる時代ではなくなりました。*2もう、ちょっとハダカが載っているだけで、エロ本を買ってくれるユーザーはいなくなったのです。頭から最後まで、びっしりとエロが詰まっているようなエロ本じゃないと買ってもらえません。
 そんなわけで、今のエロ本からは一色ページがどんどん減っています。以前のような、直接エロに関係ないような記事はどんどん排除されています。
 僕自身が編集者によく言われるようになったのは、「もっと読者が得するような情報を!」という注文です。例えば以前、僕が得意としていた風俗潜入ルポなども、編集者が求めるのは「どんなに美味しい思いをしたか」という話。僕は風俗ルポに関しては、ひどい目にあった話の方が面白い原稿になると思うのですが、それでは「読者の得」にならないというんですね。今の読者が必要としているのは、平口広美ではなくて山崎大紀だ、ということですね。
 ただ、少し考えてみると、この状況も仕方ないというか、ある意味当然の流れなのかなという気もするんですね。エロ本と称して、中身はエロと関係ない記事ばかりだったとしたら、それは読者をだましたわけです。僕らのように、だまされたけれど、そこでエロ以上に面白いものにめぐり合えた! と思う読者は一部であって、多くの読者は「しまった、だまされた!」と思っていたのではないでしょうか。
「ちぇ、オナニーしようと思ってたのに、使えねぇ記事ばかりだ! でも、まぁ、とりあえずこのグラビアで抜いておくか」
なんて感じでしょうか。でも、ま、そのグラビアだけでもなんとかなったりして。…ハダカがまだ貴重な時代だったらの話です。
 さて、ずいぶん遠回りになってしまいましたが、ようやくAVの話です。何度も書いていることですが、僕自身がエロ業界にハマったのは、90年代初頭のカンパニー松尾バクシーシ山下平野勝之、ゴールドマンといった監督たちの活躍によるところが大きいのです。彼らの撮ったAVは、AV=ズリネタという概念を壊してくれました。もう、たまらなく面白かった。「AVって、こんなことも描けるのか」と驚かされました。
 ただ、そうした作品も普通のベタなAVのようなパッケージでリリースされていたのです。例えば、平野勝之の最高傑作であろう故・林由美香との北海道自転車ツアーを描いた作品のタイトルは「わくわく不倫旅行」ですよ。このタイトルで想像する内容と、実際の内容のギャップはあまりにも大きいですよね。*3バクシーシ山下の作品群も、パッケージはどれもイイ女が体をくねらせたセクシーなものばかりです。パッケージに惹かれて借りて、「なんじゃ、こりゃぁ〜」と叫んだ人も多かったことでしょう。当時の僕は、こうした確信犯的な部分も魅力的に思えました。
 そして、ある意味で、そういった「だまし」の部分を取り去り、内容に即したパッケージで勝負しようとしたのが、HMJMの作品だったのです。あの、最高にイカすジャケットは、内容ともぴったりマッチしていました。通常のAVメーカーでしたら「アイデンティティ」「UNDER COVER JAPAN」なんて、タイトルも許されなかったでしょう。
 繰り返しますが、HMJMの作品は素晴らしい。ただし、それはAVとしての評価ではありません。やはりこれはAVではないと思います。HMJMの作り手は、「これもAVである」ということに強いこだわりを持っているようですが、これをAVの基準で語ろうとするから難しくなるのです。
 かつてのエロ本の一色ページ部分にあたる内容の一部は、「BUBKA」や「実話ナックルズ」のような裏モノ誌、ネオ実話誌といった新しいジャンルの雑誌に受け継がれています。また以前も書きましたが「フライデー ダイナマイト」や「EX大衆」といった一連の週刊誌のビジュアル増刊号には、かなりかつてのエロ本テイストを感じます。エロ本から一色ページは消えつつありますが、舞台を変えて生き続けていると言ってもいいでしょう。
 同じことがAVでもあるのではないかと思います。現にCS放送などでは、現在のAVシーンでは滅びつつあるドラマ物やドキュメント物の人気が高いと聞きます。メディアや流通、受け手が変われば、必要とされるものも変わるのです。HMJMに代表されるオルタナティブなAVを必要としているのは、今のAVユーザー、AVマニアではなく、今はそれほどAVを見ていないというような人たちの中にこそいるのではないでしょうか。
 僕が8月31日に書いた「エロにエロ以外を期待することは、間違っていたのかもしれない。」というのは、エロと、「以前はエロのジャンルに含まれていたけれど純粋なエロではないもの」を切り離した方がいいのではないかという意味もありました。エロの仮面をかぶるのではなく、もうひとつ違うジャンルを作るべきなのではないか、と。例えばテクノミュージックをロックンロールの視点から評価するのは不毛なことでしょう。重なり合う部分はあっても、目指しているものが違うならば、評価基準もきっちり分けた方がいい。
 エロ本やAVは、ズリネタとしての純化を進め、それ以外のものは、それ以外のものでまた新しいジャンルを作っていけないものかな、と僕は夢想しています。エロであり、なおかつ面白いものを求めているユーザーは、絶対いると思うんですよね。そういう人たちに向けた市場を、なんとか作り出せないものか、自分なりに色々実験してみようというのが、これからの僕のスタンスです。いや、もちろんベタなエロも好きだから、両方やるんだけどね(笑)。

*1:本当はエロ本ではなく、映画雑誌だったらしいのですが。

*2:数年前からの着エロブームというのは、こうしたハダカ・デフレの揺れ戻し現象だったような気がします。もっとも着エロ自体が氾濫しすぎてデフレ化しちゃいましたが。

*3:「わくわく不倫旅行」は、のちに劇場公開され、「由美香」と改題されました。

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