ダリブロ 安田理央Blog

フリーライター安田理央のBlogです。

儀武ゆう子の息子育ての理想

Tumblrで流れてきたんですが、この方針には賛同します。

儀武ゆう子の息子育ての理想

・小さい頃はエロから断絶
・親に隠れて夜中にエロ本を買いに行くような子になってほしい
・エロ本やビデオではハズレを引くような体験もしてほしい
・だからエロ業界は半分くらいハズレを作ってほしい
・息子のエロ本を見つけたら 「アンタのエロ本見たけど、アレならお母さんの方が可愛いわ」って言ってみたい


声優の面白いエピソード教えてくれ:ひまねっと

やっぱりエロは「恥ずかしいもの」「隠されるもの」であって欲しいと思っています。
だから価値があるので。

ま、でも今の子はエロ本買わないだろうけどさ(笑)。

創刊号50冊で振り返るエロ雑誌40年史

「創刊号50冊で振り返るエロ雑誌40年史
 ご無沙汰しております。前回のエントリーが7月末だから丸二ヶ月もさぼっちゃいました。こんなにBlogかかなかったの、初めてかもしれないなぁ。特に書かなかった理由というのは無いんですが、こういうのは習慣なので、一度書かなくなるとなかなか腰が上がらなくなっちゃうんですよね。
 ライブだのイベントだのは色々やっていたのですが、その辺はFACEBOOK PAGEの「安田理央の部屋」の方にアップしてました。今後も最新情報などはこちらの方を見ていただけると幸いです。
 ちなみに10月は、12日にネイキッド・ロフトにて、カンパニー松尾バクシーシ山下平野勝之、ゴールドマンを招いて「90年代初頭のAVに何が起こったのか?」を、そして20日にはおなじみ野獣のリリアンで下北沢TREEでLIVE、さらに24日には、新たに結成したファンクバンド、Roswellsの初LIVEがあります。こちらは四谷アウトブレイクにて。さらに28日には渋谷Bar Issheeでの小野島大さん主催のイベント「Bring The Noise!」で久々にDJやります。

 さて、現在発売中のアサヒ芸能にて「創刊号50冊で振り返るエロ雑誌40年史」という12ページの大特集を監修しました。監修といっても、雑誌集めから構成、原稿までほとんど一人で全部やってるんですが(笑)。これはタイトルどおりに、50冊の時代を代表するエロ雑誌の創刊号の表紙を並べて解説したという資料的要素の強い特集です。
 取り上げた雑誌は、Pocketパンチ Oh!、S&Mスナイパー、GORO、映画の友、プレイボーイ日本版、写真時代、ビリー、アクションカメラ、スコラ、写真時代Jr、日本版ペントハウス、スーパー写真塾、ベッピン、ザ・ベストマガジン、クラッシュ、デラべっぴん、夜遊び隊、プレイガール、ウレッコ、すっぴん、ボディプレス、ヘイ! バディー、スクリュー日本版、DOLIVE、ビデオ・ザ・ワールド、アップル通信、ビデオボーイ、ビデパル、ガールフレンズ、ビデオメイトDX、ジャンクショップ、GOKUH、ニャン2倶楽部、クリーム、TOPAZ、BIG4、お尻倶楽部、Vacca、THE TENMEI、SEX DOLLS、ペントハウスjapan、お宝ガールズ、おとこGON!、WAM、ファイヤー、スマートガールズ、TENGU、サルシキ、平口広美のフーゾク魂、ソフト・オン・デマンドDVDの50冊。それからコラムでアサヒ芸能、キングコング、危ない1号、PENTジャパンスペシャルを取り上げています。
 基本的にエポックメイキングとなった雑誌をセレクトしたつもりなのですが、僕のコレクションがベースになっているもので、どうしても偏りが出ちゃってるんですよね。白夜系、英知系がやたらに多いとか、サン出版系が入ってないとか……。解説も全然書きたりなかったので、いつかムックか何かの形でもっと充実した形でまとめられたらいいなと思っております。あと、「ニャン2倶楽部」の創刊は1989年なのに、なぜか1997年にしちゃっているという痛恨のミスもあったりして。ああ、なんで気づかなかったんだろう……。
 あえて創刊号に絞ったのは、エロ雑誌というのは路線変更が多いのが面白いなと思ったからです。これは特集の中のコラムでも書いたんですが、エロ雑誌は売れなければ、さっさと路線を変えちゃうものなんですね。あんまりプライドが無い(笑)。だから歴史の長い雑誌などは、時期によって全くスタイルの違う雑誌になっていたりする。有名な雑誌でも創刊号はまるで別物だったりすることが珍しくないんです。雑誌はつくづく生き物なんだなぁ、と実感します。当時、この辺の雑誌を愛読していた人は、創刊号を見て「へー」って思うこと多いんじゃないですかね。
 ま、とりあえずエロ雑誌の創刊号ばかりをこれだけ一挙に並べた特集というのは前代未聞だと思います。もうすぐに次の号が出ちゃいますので、興味を持った方はぜひ急いでお買い求め下さいませ!
 最近、僕はこんな感じの仕事ばかりしてますね。冗談で名乗った「アダルトメディア研究家」そのものになってきました。でも、エロメディアも「まとめ」の時期を迎えたってことは、何か寂しい気分にもなったりして。

続おやじびでお 第6話 ロリコンはどんどん肩身が狭くなるよの巻

 前回のテーマが熟女だったから、今回はその逆で、というわけではありませんが、日本のエロメディア史を語る上で避けて通れないのが、80年代前半のロリコンブームなのです。現在40代のおじさんの中には、思春期にこの洗礼を受けてしまった人が多いのではないでしょうか?
 そもそもブームの発端は「リトル・プリテンダー」*1という11歳の少女のヌード写真集のヒットでした。それまでも少女ヌードの写真集は芸術作品として何冊も発売されていたのですが、この頃から少女ヌードをエロとしてとらえる風潮が生まれていたのです。
 その大きな理由のひとつが、ワレメでした。当時の日本では猥褻の基準が陰毛だったんですね。陰毛が写っていれば猥褻物、という大変わかりやすい基準。じゃあ、陰毛がなければ猥褻じゃないのか。まだ陰毛の生えていない少女のワレメは猥褻じゃないのではないか、という明らかにおかしな理屈が通用しちゃったんですね。そこで、ワレメが丸見えの少女ヌードが続々と登場したのでした。
 ちょうどこの時期、漫画方面でも「ロリコンブーム」が盛り上がっていました。1979年に蛭児神建*2吾妻ひでお*3らによる日本初のロリコン漫画同人誌「シベール」がコミケに登場。それまでエロ漫画と言えば劇画タッチが当たり前だったのが、少年漫画的なタッチで描かれる可愛い女の子のエロは斬新であり、多くの漫画マニアに受け入れられていきます。さらにアニメ雑誌などで「ルパン三世 カリオストロの城*4のヒロイン、クラリスなどの少女キャラを取り上げる「ロリータ特集」が多く組まれるようになります。
 このように二次元、三次元がリンクするかのように盛り上がり、世界でも類を見ない空前のロリコンブームへとつながっていくのでした。
 いや、ホント、笑っちゃうくらいこの時期は少女・幼女ヌードが街にあふれていたのですよ。ブームのピークとも言える1982〜83年頃は少女ヌードの写真集が年間20冊以上も出版され、まだ普通のAVも珍しかった1982年には、もうロリータビデオの第一弾「あゆみ11歳 ちいさな誘惑」*5が発売されています。さらに83年には少女Mという13歳のヌードアイドルが登場し、ビデオや写真集だけではなく、一般誌のグラビアや劇場映画にまで活動の幅を広げていました。
 そうそう、この頃はマニア向けではない雑誌に、普通に少女ヌードが出ていたんですね。「プレイボーイ」や「平凡パンチ」、「GORO」に「スコラ」といったメジャー系誌にも、そしてもちろんエロ雑誌にも、18歳未満の女の子の裸が掲載されていました。
 特に白夜書房(現コアマガジン)系のエロ雑誌には、必ずと言ってもいいほどにロリータヌードが数ページありましたね。例えば伝説のサブカルエロ雑誌「写真時代」の創刊号(1981年9月号)を見てみると、ロリヌードの巨匠・清岡純子先生*6によるたからまゆみちゃん11歳をはじめとして、8歳、5歳(!)の女の子がいたいけなヌードを披露しておりますし、「ビデオザワールド」創刊号(1983年11月号)にも海外の少女・幼女のヌードグラビアが掲載されております。
 つまり、普通にエロ本を見てたら、少女ヌードも目に入る。そんな時代だったわけです。
 そして、一般書店にも少女ヌード写真集が普通に置かれていて、立ち読みできちゃったりしたのですよ。
 印象深いのは「私はまゆ13歳」という写真集。モデルの花咲まゆちゃんという子は、おっぱいも大きくて、なかなかの発育をしていました。当時、僕は15歳だったので、一般のヌードモデルよりも、ずっと身近というかリアルな同世代のヌードだったのですね。そんな子のワレメ丸出し写真が普通の本屋で立ち読みできた! 今、考えると恐ろしいですね。
 さすがに当時は購入することは出来ませんでしたが、ちょくちょく店員の目を盗んでは立ち読みして、心と股間を熱くしておりました。
 まぁ、そんなわけで当時は、単に無修正のワレメが見られるという理由で、いわば成人女性のヌードの代用品的に少女ヌードを見ていた人も多かったのではないでしょうか? もちろんここでロリコンに目覚めちゃった人もいるでしょうが。
 しかし、当然のごとくこんな状況が長く続くはずもなく、1985年以降は少女のワレメも猥褻として摘発されるようになり、少女ヌードブームは終結。さらに1989年の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(宮崎事件)により、ロリコン=オタク=危険というイメージが広がり、ロリコンへの弾圧が始まります。さらに1997年の児童ポルノ法の施行によって、完全に少女ヌードは生き絶えることになりました。
 そして、今話題の「非実在青少年規制」をはじめとして、児童ポルノへの締め付けは厳しいものとなっています。規制派は、児童ポルノの単純所持すら禁止しようと目論んでいるんです。
 しかし、そうなると前述の通りにロリコン雑誌だけじゃなく、あの時期のエロ雑誌やグラビア雑誌は軒並み所持禁止ということになっちゃうんですよね。「プレイボーイ」や「平凡パンチ」も、もちろん「写真時代」も! 
 よくも悪くも、こういう時代があったのだということは事実なんだから、その痕跡を一切消してしまおうというのは、ちょっと怖い気がします。特に僕のようにエロメディアを研究している人間にとっては痛手ですよ。
 うーん、単純所持禁止だけは、なんとかなんないもんですかねー。それ見てオナニーとかしないって、約束しますから。……ダメ?

TENGU(ジーオーティー)2010年9月号掲載。いや、ホント、昔の雑誌には平気でロリータヌード出てるんですけど、こういうのも持ってたら犯罪っての困りますよね。古雑誌取っておいてる人なんて、危険ですよ。

*1:サブタイトルは「小さなおすまし屋さんたち」 79年ミリオン出版刊。カメラマンは山本隆夫。登場する5人の少女はすべて11歳だとか。

*2:作家、編集者として初期ロリコンシーンのカリスマに。長髪にサングラス、マスクという不気味なスタイルがトレードマーク。後に出家して僧侶になった。

*3:漫画家。少年チャンピオン連載の「ふたりと5人」で人気作家となるも、自らアングラなシーンへと活動の場を移し、初期ロリコンシーンのカリスマに。

*4:監督は宮崎駿。ルパンの「妬かない妬かない。ロリコン伯爵」というセリフがあるが、制作された79年は、本格的ロリコンブームの到来以前であり、むしろこれがロリコンという言葉を定着させたとも言える。そのため、ヒロインのクラリスは設定年齢17歳とロリータというには年が上だが、当時のロリコンブームのシンボルとして扱われていた。

*5:発売は三田プロダクション。三万円で通販のみだったが爆発的に売れたという。あの伝説のライター、故・青山正明も出演していた。

*6:少女ヌードの大家として知られる女流カメラマン。菅原道真の血を引く京都の名門華族の出でもある。91年没。

続おやじびでお 第5話 fromおばちゃん To大人のいい女の巻

 今やすっかりAVの中でも重要なジャンルとなった熟女ですが、こんな風に定着したのは、10年くらい前。30年に及ぶAVの歴史からすると、割りと最近の話なんです。
 いや、熟女モノAV自体は昔からありましたよ。80年代末に安達かおる監督の「奥さん、いいじゃないですか、へるもんじゃあるまいし」*1シリーズ(V&Rプランニング)がヒットし、生活感を強調した熟女・人妻モノがちょっとしたブームになりました。でも、この頃の熟女は、あくまでも「おばちゃん」であり、一部のマニアックな人向けという感が強かったんですね。AVショップなんかでも、SMとかスカトロ、ニューハーフなんかの棚に並べられたりして、「熟女モノ見る人は、変態」と思われている節がありました。
 いや、しかし、この原稿を書くために80年代中期のAV黎明期のAV雑誌を調べていたんですが、本当にびっくりするほど熟女・人妻モノが皆無*2なんですね。「少女」とか「女子高生」「女子大生」など若さを強調する作品ばかり。AV黎明期の記念碑的ヒット作である代々木忠監督の「ドキュメント ザ・オナニー」シリーズには「主婦 斎藤京子」編があるんですが、25歳の若妻ですしね。

 松沢呉一さんの名著「熟女の旅」*3によれば、そもそも日本のエロの対象は熟女・人妻がメインだったといいます。そう言えば、日活ロマンポルノの記念すべき第一作は「団地妻・昼下がりの情事」*4でした。
 それが70年代に入ると、低年齢化して行き、80年代にはあの空前のロリコンブームが起きるわけです。
 この辺の話はいずれじっくりと書きたいと思いますが、AVの黎明期と言えばモロにこのロリコンブームと重なるわけですよ。
 そしてロマンポルノなどの従来のエロメディアとの差別化の意味でも、若さを強調してたのかもしれませんね。
 この頃、中学・高校生だった自分にとっても、熟女・人妻ってのは、ピンと来ませんでした。20代のセクシーなお姉さんはともかく、やっぱり同世代に近い方が興奮します。この時期に氾濫していた少女モノなんかも、同世代に近いという目線で見ていました。
 そういう意味で、前述の80年代末の熟女ブームの時は、まだ早かったんですね。こっちも20代。熟した女性の魅力がわかるには、まだまだ勉強不足。しかも、当時の熟女は「おばちゃん」ですからね。これはハードルがかなり高かった。というわけで、この第一期熟女ブームはスルーしました。
 さて、現在につながる本格的な熟女ブームは2000年代に入ってからやってきました。ご存知の通り、99年に溜池ゴロー監督が川奈まり子を撮った「義母〜まり子34歳」(ソフトオンデマンド*5のヒットがきっかけです。

ここから熟女=おばちゃん、ではなく、熟女=大人のいい女、という視点で撮られたAVが次々と作られ、さらに人気熟女がたくさん登場し、熟女ブームは過熱していきました。
 そして現在はマニアックどころか、美少女単体モノに匹敵するメジャーなジャンルに成長したわけです。
 熟女というだけで敬遠していた私ですが、今はすっかり「熟女、悪くないじゃん。いや、むしろ歓迎」と思うようになりました。何しろ、もうバッチリ同世代、というか多くの熟女が年下になっちゃいましたからね。
 実際、この年(42歳)になると、30代も「若い」とか思っちゃいますからね。30代女子つかまえて、「女の子」とか言っちゃいますからね。こちらの許容範囲がグーンと広くなった感があります。AVを好んで見る層が高齢化しているという話がありますので、私のように「同世代」好みの人多いとすれば、現在の熟女人気も納得の行くところであります。
 それからもう一つ、調べていて気づいたんですが、熟女AVって現在主流のAVとちょっと違うところがあるんですよ。すぐセックスに突入するのをよしとする今のAVに比べて、熟女AVは前置きが長いんですね。それはドラマだったり、ドキュメンタリーだったり、熟女自身のキャラクターの描写がまずあるというスタイル。そしてあまりハードな内容のものは好まれないという傾向。
 これ、よく考えてみると、レンタルAV黄金時代のスタイルなんですよ。今のセルAVではすっかり肩身が狭くなったドラマやドキュメンタリーが、熟女というジャンルの中では、まだ生きているんですね。
 熟女AVのファンというのは、単に熟女が好きというのだけではなく、今のハードコアなAVに疲れちゃった人、という面もあるのではないでしょうか。
 以前に、都内のとあるビデオショップを取材した時に聞いた話なんですが、その店はお客さんの年齢層が高く、40代、50代がメイン。当然の如く熟女モノの人気が高いんですが、女優モノでもデビュー作よりも、その後の作品が売れるというんですね。気に入るとその子の作品をずっと買い続ける。新人よりも慣れた子の方がいいというわけです。風俗でいうところの馴染みの子。
 AVを見るのでも、過激さよりも癒しを求めたいという熟女ファンの傾向が見えてきますよね。
 さて、昨年あたりから熟女の中でも五十路*6の人気が高まっているそうです。私もさすがに五十路モノはちょっと苦手なのですが、これも自分が五十路になると守備範囲になってくるんでしょうか。そしてこのままAVユーザーの高齢化が進んで行くと、ちょっと恐ろしい未来が待っているかもしれません。
 とか言いつつ、私は若い子のAVも大好きなんですけどね。守備範囲は広いですよー(笑)。

TENGU(ジーオーティー)2010年8月号掲載。最近は熟女物に20代の女優が出演することも多くなり、熟女の幅がやたらと広くなっちゃってます。もはやAVというジャンルの中の最大勢力だもんなぁ、熟女。

*1:インパクトのあるタイトルも受け、こうした口語体のAVが以後、続出した。ちなみにカンパニー松尾原作の「職業AV監督」によれば第一作の女優は、本当の人妻ではなかったとのこと。

*2:手元にある84年、85年頃のAV雑誌をひっくり返して調べたが見事なくらい見つからなかった。代わりに少女M(13歳でデビューしたロリータヌードアイドル)や、くりいむレモンの特集なんかがあった。正にロリコン黄金期だったのだ。

*3:熟女マニアの編集者との会話を中心とした松沢呉一氏の熟女考。99年 ポット出版刊。現在はちくま文庫。氏の著作の中で一番面白いかもしれない。

*4:71年に西村昭五郎監督、白川和子主演で制作され大ヒット。79年までに22作まで作られた。今年、中原俊×高尾祥子のコンビでリメイク。

*5:当時は熟女で単体モノを撮るというのは冒険だった。ちなみに川奈まり子はこの時、32歳なので2歳逆サバを読まされている。

*6:実は五十路にとどまらず、年齢は高ければ高いほど人気が出ると某熟女メーカーの談だが、さすがに女優の数も少なくなってしまうので貴重度は高まるばかり?

「ECSTACY WEB MAGAZINE VOBO」スタート

 コアマガジン「ECSTACY WEB MAGAZINE VOBO」がいよいよスタート。創刊号はみうらじゅんのインタビューをはじめ、都筑響一や面影ラッキーホール会田誠山本弘根本敬リリー・フランキー丸尾末広、といった非エロの人も動員してサブカル度たっぷり。もちろんエロネタも女装とかロリコンとか女王様とか充実! かつてのエロ雑誌を彷彿される、と書きたいところだけど、わかりやすいエログラビア的なものが全然ないのはちょっと寂しいかな。まぁ、実際そういうのは期待されてないんだろうけど。

 SMスナイパーの発展形「WEBスナイパー」、エロ系ライター総集結の「メンズナウ」など、かつてのエロ本文化は完全にWEBに移行していますね。この動きがどこまで広がるのか、というか生き延びることが出来るのかを占う意味で「VOBO」には期待したいです。

 

続おやじびでお 第4話 とにかく毛がみたいんだ!の巻

 日本のエロメディア界において最も重要な年となると、やはり1991年になるのではないでしょうか?
 湾岸戦争が勃発し、ソビエト連邦が崩壊し、バブル経済がはじけたこの年、日本でも大きな事件がおきました。
 ヘアヌード解禁です。20年前までの日本では陰毛を見せることは禁止されていたのですね。わいせつ=陰毛と、根拠はわからないけれど、ある意味明確な線引きがされていたのです。
 だからこの時期までのヌードグラビアというのは、いかにして股間=陰毛を隠すかという不自然なポーズが多かったんですね。そういう中から麻田奈美*1のリンゴヌードという傑作が生まれたりもしました。そして、毛が写るのがまずいなら、剃っちゃえ、なんてモデルをパイパンにしてしまったヌードも多かったですね。
 しかし、当時のエロ本業界をルポした南伸坊先生の名著「さる業界の人々」*2によれば、剃ったら剃ったで「毛があるべきところにないのはおかしい」と警視庁から怒られたという記述があったりもします。
 まぁ、いずれにせよ、隠されると見たくなるのが人間というもので、当時はとにかく毛が重要、毛が見たい! というのがエロい人の望みだったんですね。具なんて、とうてい叶わないから、せめて毛を見たい! というわけです。
 とはいえ、80年代でも「写真時代」あたりの雑誌はお上に怒られるの覚悟で、チラチラと毛を見せてくれてましたし、「ブルータス」*3などの一般誌が芸術の名目で陰毛の写っているヌードを掲載することもありました。
 そんな状況が一気に変わったのが91年に篠山紀信が撮影した樋口可南子の写真集「ウォーターフルーツ」です。陰毛がしっかり写っている写真が何枚もあったにも関わらず、警視庁は摘発しなかったんですね。続く宮沢りえの「サンタ・フェ」もおとがめなし。これが事実上のヘア解禁ということになったわけです。
 さぁ、そうなると業界は雪崩を打ったようにヘアヌード写真集を連発し、空前のヘアヌードブームが起きたのでありました。この後の5年間でなんと6百冊以上のヘアヌード写真集が発売されたというから正に狂乱。
 面白いのは、最初は「芸術」*4の名目で許可が降りたと見られたため、ヘアヌードを掲載できるのは一般誌のみ、という風潮がありました。だから、ヘアヌードは芸能人のみ、AV女優や風俗嬢は毛は出しちゃダメ。また一般誌はOKだけど、エロ本じゃ毛はダメという、ねじれ現象が起きていたのであります。コンビニで売っていて、誰でも買える週刊誌にはヘアヌードが載っているのに、成人向けのエロ雑誌ではヘアは厳禁。変な状況でした。
 その影響なのか、この時期のエロ雑誌はスカトロ系の「お尻倶楽部」とか過激投稿の「ニャン2倶楽部」、ブルセラの「クリーム」、ぶっかけの「マスカットノート」といったフェチ色が強くやや屈折した専門誌の元気がよかったようです。そういえば、日本初のアダルトゲーム専門誌「パソコンパラダイス」もこの時期に創刊してますね。
 今は今月号の特集でも書いているようにパイパン好きな私ですが、この当時はやっぱり貴重だったせいもあって、ヘアヌードに夢中になっており、雑誌のヘアヌードグラビアなどを切り抜いてスクラップしておりました。好みのモデルじゃなくても、ヘアが映ってると勿体無いからと捨てられなくて。今、そのスクラップブックを見ると、なんでこんな写真を? と思うようなページばかりです。あの頃、ヘアヌードになるのは盛りをすぎた熟女女優ばかりだったしねぇ…。
 さて、この後、次第にエロ本でもなし崩しにヘアが事実上解禁されていったわけですが、AVの方では依然厳禁でありました。ビデ倫が断固として許可しなかったんですね。この方針は、なんと2006年まで続いたのですから、その頑なさはむしろ賞賛すべき?
 日本で最初のヘアヌードビデオが登場したのは94年。豊田薫監督による河合メリージェーンの「メリージェーン」*5です。本作以前にもヌードで温泉を紹介するビデオなどで、ヘアが写っているものもあったりして、ビデ倫審査を受けていないセルAVでは少しずつヘア解禁が進んでいました。
 そしてその翌年にやってきたインディーズAV(セルAV)ブームでは、ヘア無修正の作品がどんどんリリースされました。空前のヒットとなったソフト・オン・デマンドの「全裸シリーズ」なども、その企画の奇抜さ以上に「動くヘア」がたくさん見られるという驚きが受けたのだと思われます。
 簡単に無修正が入手できてしまう現在からすれば、陰毛で大騒ぎしていた20年前というのはなんとも奇妙ですね。物心ついた頃からヘアヌードがあった若者からしてみれば、信じられないでしょう。
 今、この原稿を書くために当時のヘアヌード写真集やグラビア誌*6を色々見ていたんですが、なんというか写真にパワーがあります。バブルは崩壊しても、まだまだ景気のよかった時代ならではのパワーですね。何しろ「サンタ・フェ」155万部は別格としても、B級タレントでも10万部は売れたというし、ヘアヌードグラビア合戦をしていた頃の週刊ポストと週刊現代は最大150万部という売上を記録しています(ちなみに現在は両誌とも50万部以下)。ヌードグラビアが一番パワーがあった時代だと言えるでしょう。それが写真からも伝わってくるんですよね。
 最近では、元バレリーナの草刈民代がヌード写真集の新聞広告を出して話題になりましたが、さてどれくらい盛り上がったのでしょうか…。

TENGU(ジーオーティー)2010年7月号掲載。最近は古本で「ザ・テンメイ」を集めております。ホント、ラジカルで面白い雑誌です。あの時代の躁状態をよく現してます。

*1:70年代に活躍したヌードモデル。18歳の時に撮影された股間をリンゴで隠した写真は日本ヌード史に残る傑作。あどけない顔立ちと美巨乳は今見ても、全く色褪せない魅力がある。

*2:81年情報センター刊。エロ本業界の奇妙な実態を独特の文体で描いた南伸坊の書下ろし処女作。超名著!

*3:85年に「裸の絶対温度」のタイトルで荒木経惟浅井愼平加納典明らのヌード写真を特集。芸術の名のもとでヘアを掲載。警視庁から警告を受けたが摘発はされなかった。

*4:その理由から当初はカラミのあるヘアヌードはNGとされていた。94年には「ベッピン」「スコラ」が、ヘアを手や口で触っているという理由で摘発されている。

*5:スペイン人とのハーフで当時そこそこ人気のあった河合メリージェーンを鬼才豊田薫が撮影した。ただしAVではなくイメージビデオだった。発売はV&Rプランニングの関連会社であるケイ・ネットワーク。

*6:「BIG4」「NAWON」などヘアヌード中心でグラビアオンリーの雑誌が何冊も創刊された。その代表が「ザ・テンメイ」で、過激に走り過ぎて95年に摘発される。ユニークすぎるキャッチコピーのセンスなど再評価に値する。

続おやじびでお 第3話 ゴールドマン監督と知り合って……の巻

そして90年代初頭、日本のAV界におけるパンクムーブメントが訪れた! なんてカッコイイことをつい言いたくなるような時代だったのだ!


 おれは決して忘れない。ゴールドマンのAVに初めて触れたあの時の衝撃を……なんて、ロック評論風に書きたくなってしまうほど、私にとってゴールドマン監督*1との出会いは衝撃的でした。1989年の事です。
 当時、私はビデオ業界誌の編集部でバイトをしていました。レンタルビデオショップ向けの雑誌なので一般作中心の誌面ではありましたが、当然AVも扱っていて、編集部にはサンプルテープもたくさんあったんですね。
 そのうちの一本に「着せ替え生肉人形」という作品がありました。AVアイドルとして一世を風靡した早見瞳*2が、SMの名門メーカー、アートビデオに出演している! あの早見瞳の初SMか! 僕は興奮してそのサンプルテープを奪い取るように借りて帰りました。
 期待に胸を踊らせながら再生すると、それは何とも奇妙な作品だったのです。画面は黒い枠で小さく縁取りされ、真っ白な部屋の中で、変な格好をしたマスクの男に、白衣姿の早見瞳が拘束されていくのを淡々を固定カメラで撮影していたり、メイド姿の早見瞳が黙々とフェラチオするのを主観撮影していたり……。今では当たり前の主観撮影ですが、当時、フェラされる本人が撮影しているというのは、大変珍しい手法だったんですね。その後も早見瞳に色々なコスチューム着せてはフェラさせての繰り返し。その無機質な映像は、まるで実験映画のようでした。私が期待していた過激なSMとは全く無縁ではありましたが、既存のAVとは明らかに違ったこの作品に私は強く興味を持ったんですね。
 ラスト、付け足しのような短いセックスシーンがあって、唐突に本編が終わり、「Directed by GOLDMAN」のクレジット。え、ゴールドマン? これを撮った監督の名前なのか?
 私は、このゴールドマンの作品を次々と見ていきました。ハンディカメラでワンカットによるハメ撮りという当時としては実験的すぎる手法で撮影した「なま」、極度なエフェクトでもはや何が写っているのかわからない「100P」など、もういちいち凄かったんです。
 感動した私は当時やっていたフリーペーパーのインタビューにかこつけて、ゴールドマン監督に会いにいったのでした。それがきっかけで、ゴールドマンの仕事などを手伝うようになり、AVの制作現場に顔を突っ込むようになったんですね。
 さて私がゴールドマンにハマっている頃、AV業界ではもうひとつの新しい動きがありました。SMやレイプ物、スカトロ物、獣姦物などをリリースし、どちらかと言えばキワモノメーカーと思われていたV&Rプランニングに新しい才能が集まり始めていたのです。
 まず最初に話題となったのが「女犯」です。90年に発売されたこの作品は、そのあまりにリアルで過激なレイプシーンが話題となり、フェミニスト団体が抗議して社会問題となるほどでした。私も初めて見た時は、その生々しさに唖然としました。見てはいけないものを見ているような気分。後に全て演出だったことが明かされるのですが、フェミニスト団体がダマされてしまうのも当然と思えるリアルさがありました。その監督、バクシーシ山下*3はこうして時代の寵児としてクローズアップされていきます。
 さらにもう一人の問題児がV&Rから登場します。92年に「水戸拷問」を発表する平野勝之*4です。暴力、ゲロ、ウンコに花火シャワーとバイオレンスかつアナーキーな作風で注目を集め、やがて自分の不倫体験を描いた「わくわく不倫講座」などのドキュメント路線でAV表現の最前線に躍り出ます。
 そしてカンパニー松尾*5です。監督デビューは88年と早いのですが、初期の作風はMTVを意識したようなカラフルでポップな画面と叙情的な演出が前面に出たもので、斬新さには欠けるところがありました。しかし、91年の「私を女優にして下さい」シリーズなど、8ミリカメラを使っての素人ハメ撮りという手法を編み出した松尾は、AVの新しい表現を切り開いていくことになります。
 この90年代初頭のAV業界は、桜樹ルイ白石ひとみ朝岡実嶺といった超人気単体アイドルが登場し、メーカー共同による「ビデオソフトメーカー感謝祭」が豪華客船を借りきって行われるなど、正に黄金期を迎えていたのですが、その一方で栄華を誇っていたダイヤモンド映像が倒産するなど、不況の足音がひたひたと近づいていた時期でもあったのです。
 そんな中で彼らのような新しい才能の登場は、まるで停滞した音楽業界を生まれ変わらせたパンクムーブメントのように当時20代の私には感じられました……なんて、やっぱりロック評論風な文章になっちゃいましたね、いつもと違って(笑)。でも、ホント、彼らの存在は同世代としても嬉しかったんです。思わず当時、「ロッキングオン」誌に「今、本当にアナーキーなのはロックよりもアダルトビデオだ!」なんて趣旨でゴールドマンやカンパニー松尾についての原稿を投稿しちゃったりしてました。若気の至りでお恥ずかしいです。
 そしてこの頃、密かに通信販売による自主制作ビデオや、ブルセラショップのオリジナルビデオなどが作られはじめます。美少女や美女が綺麗な映像の中でセックスをするのが王道というAVの世界が少しづつ揺らぎ始めます。作られた美少女よりも、生々しい素人の方がエロい。私たちユーザーもそんなことに気づいたのです。
 そしてこの時期、日本のエロメディア史で最も大きな事件が起きていました。それは、91年から始まるヘアヌードブームでした…。

TENGU(ジーオーティー)2010年6月号掲載。現在も連載中で、発売中の11月号ではAV雑誌について書いてます。ちなみにゴールドマン監督は現在、セクシーアカペラ歌手としても活動。DVD「超セクシーアカペラ大全集」は、僕が販売を担当しております! 素晴らしい作品なので、買って! http://d.hatena.ne.jp/rioysd/20100908/p1

*1:87年「電撃!!バイブマン」でAV監督デビュー。その後「なま」でハメ撮りを、「ザ・フーゾク」で風俗を、「わたしは痴女」で痴女&淫語ブームを切り開くなど天才監督の名を欲しいままにするが90年代末に突如活動を休止し渡米。

*2:吉沢有希子名義で84年「ミス本番 有希子20歳」でデビューし、後に早見瞳と改名。AV女優としては初めてレコードデビューも果たしている。

*3:男優を経て、90年「女犯」でAV監督デビュー。世の中のタブーに切り込む異色のドキュメント路線で一世を風靡し、文化人としても活躍。

*4:16歳で漫画家デビュー、自主映画監督として3年連続でぴあフィルムフェスティバル入選の快挙を果たしたのち90年「由美香の発情期」でAV監督デビュー。私小説的な作風を得意とし、作品が劇場公開されるなど一般的な評価も高い。

*5:88年「あぶない放課後2」でAV監督デビュー。磨き抜いたハメ撮りテクニックと洗練された映像センスで、日本を代表するAV監督として高く評価されている。ハメ撮りの神と呼ばれることも。自身が率いるメーカー「HMJM」などで活動。

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